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徳島の古代史研究家

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 2 comments 0 trackback
ヤフーブログでは徳島の古代史について書かれている方は少ないようですが、
他のブログではかなりたくさんの方が書かれているようです。

最近読ませて頂いたのは、楽天ブログのなみがしらさんです。
商売の傍らボランティアで講演や古事記に縁のある場所を案内もされているようです。

いま四国が面白い?

古代史そのものには興味のない僕でもそう思ってしまいますね(笑)

学者さんはちゃんと徳島に来て調べた方がいいですよ とおせっかいを言いたくなります。

まあ、天皇の始まりやヤマト朝廷のことなどどうでもいいと考えている僕には関係ない(笑)

こんなことを書いていると、「それでも日本人か!」と怒られてしまいそうですね。
でも重要ではないと思うから仕方ないんですね。

とにかく僕は常識には収まらないことをかいている既知外ですから。

それでも、徳島が神話の舞台になっていることには変わりはないのです。
徳島県人の研究者から見れば、古事記の舞台が徳島であることは明らかです。

でも、その証拠となる大切な場所を観光化してほしくはないと思います。


僕は聖書も古事記も詳しい訳ではありませんし、神社仏閣についても知りません。
精神世界の話が専門なのでね(笑)
まあ、精神世界の話と神話は切り離せませんから、少し古事記や聖書にも触れることにはなります。

ブログでも多くの人がスピリチュアルなことを情報発信されています。
僕も最初は、神道系、大本神諭、日月神示、チャネリング系の方のブログを訪問していました。
しかし、どうも皆さんしっくりこないんですね。

たしかにいいことは言ってるようなんですが、大事なところで???となってしまいます。
知識的には物凄い方もいらっしゃいました。
それでもやっぱり大事なところが分かっていないんですね。

天岩戸の真実を知らないで、岩戸開きだ!岩戸開きだと取巻きを煽っている。
非常に残念な方が多いんですね。

徳島の研究者は、単に古事記の記述などから徳島が神話の舞台だと気づいているだけなので健全です。
これからも頑張っていただきたいと思います。

あっ!でも一宇にある本物の天岩戸のことはあまり知られない方がいいかも?


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アマテラスの使命

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 0 comments 0 trackback

以前に、古事記と旧約聖書2の記事である方からコメントを頂いてました。
「伊勢の皇學館大學で上級者向けに、聖書が教科書になっている」

僕も知りませんでした。知らないのは当然なんですが(笑)
宗教そのものには全く興味がなく、調べようとは思っていないのですからね。

それでは何故、神道で聖書なのか?疑問に思う方が多いと思います。
ですが、僕にとってはごく当たり前と受け止めています。神道って割とまともなんだと思った次第です(笑)

前から言ってるように古事記や聖書、各地に残る神話は元は一つである。これが理由ですね。
神話だから人間が勝手に作り上げた話ということではありませんよ。
元は神から与えられた知識に基づいていますからね。
古事記は神話の舞台となった現実世界の場所が分かるように書かれています。
一方、旧約聖書では、悪魔の住む精神世界の存在、場所についての記述がたくさんあります。

だから、上級の神職になるには最低限の精神世界を理解する必要があるということでしょうね。
一般的には記紀と聖書からしか学ぶ資料が現存しないということですね。

本物の歴史書にはこれらよりもはるかに詳しい精神世界の真実が記されているのですが・・・
そう、ゆきおの協力者である篠塚のモデルの女性が持っている歴史書です。

さて、そろそろ本題です。

アマテラスと言えば天岩戸ですね。
岩戸隠れなどというトンデモ話で有名です(笑)
では、何故、天岩戸がこんな話になってしまったのか?それはまた別の機会にしましょう。

僕が天岩戸に拘る理由、それは、岩戸の真実にあります。
天岩戸とは、地獄の第七層「ゲヘナ」の扉のことですからね。

岩戸の番人として存在していたスサノオが悪魔に食われてしまったことが発端です。
それ以後は、アマテラスは何度も転生しては岩戸開きを阻止するために一生を奉げています。

ニニギはアマテラスの孫ということになっていますが、実はアマテラス本人です。
何度も転生していますから、別人と思われるかもしれませんね。
何度転生しようが、人間の本質である生命体はアマテラスだということでしょう。

それで、アマテラスの使命ですが、一つは岩戸開きを阻止すること。
他にもあるようです。遠い未来から遠い過去の地球にタイムマシーンでやって来て、
大勢の黄色人種を日本列島に放った。
この理由が単に未来で家畜として飼われていた黄色人種が増えすぎただけか?

僕の考察では、神のシナリオによる人類救済計画の一端だと思います。
日本、いや、徳島という精神世界の中心的な場所、天岩戸という地獄と繋がる重要な場所を
期が熟すまで隠し守るための任務だったのではないかと考えます。

そういう意味からしても、空海による四国八十八ヶ所の結界も同じことと考えたほうが納得できます。
古代イスラエルの失われたアークを守るなどという小さなことではない。
そんな物にそれほどの価値はないでしょう。

剣山周辺の重要な場所に余所者を立ち入らせない、外国に対しても四国は何もない場所だと印象付ける
必要があったということではないでしょうか。

最近では、徳島のアマチュア研究家の活動が活発になっているようですが、古代史マニアの域を出ない
人が多いように思います。
素直に古事記を読めば、その場所が徳島のことだと分かりますね。
でも、本当に重要な場所はそっとしておいてほしいと思います。

書き始めるときりがなくなるのでもうやめます(笑)

神の教えと神話

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 1 comments 0 trackback
タイトルだけ見ると凄い感じがするが、内容はたいしたことありません(笑)

神の教えとは、十戒の石版に記されていることだ。
それが全ての宗教の根本的な教えになっている。
それが、人として生きるための指標となっている。

その一方で、神と悪魔の存在について詳しい知識も与えられた。
それが、古事記、旧約聖書、ギリシャ神話、エジプト神話、中国神話等様々な神話の元である。

そこまではいいのだが、時が経つにつれ人間の愚かさ故に、勝手な解釈から様々な宗教に発展した。
本来は一つの教えであったものが、時間と場所の違いだけでは説明できないような
違った教えになってしまったのだ。

そして、民族間の対立、宗教上の対立を生み、さらにそれを利用して征服欲を満たす者まで現れた。
神は人間の愚かさにほとほと困っている。人間が神に愛されているなどという宗教は偽物である。
どんなに立派な理屈を取り繕っていても間違いいは間違いである。
人間の分かっている範囲の歴史を見ても明らかだろう。

地球人類と神や悪魔との真実の歴史を知るには、記紀と旧約聖書を基本とし、
各地の神話も含めて総合的に解釈することが必要だ。
特に古事記にはたくさんの精神世界の存在についての記述がある。
これらの神と各地の神話の神を対比させ、一致させれば、かなり真実に近づくだろう。

神話に精通した方にぜひやってもらいたいものだ。(って他人任せかよ!)
僕には無理ですから(笑)

世の中の諸悪の根源は「天岩戸」が開かれようとしていることにある。
これは南斗星君からの情報であり、真実である。
アマテラスの岩戸隠れの話とは真逆の話である。
つまり、あまりにも分かりやすかった話を分からないようにするために、話を作り替えた際
精神世界のことを解さない人間によるとんでも話になってしまっているのだ。
もし、わかってやっていたのなら後世の人間を迷わせた大罪人と言える。

最後に神は神を崇拝しろとは教えていない
       自然の恵みに感謝しなさい

だから宗教も信仰も必要ないのである。

イザナミとエヴァとリリス

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 1 comments 0 trackback
さて、昨日のアワシマの記事でリリスに触れたので、ついでにもうすこしだけ

記紀と聖書は元は同じものである。これは誰がなんと言おうと事実ですが、
書物にされた場所や時代の違いにより様々な物語になっています。

それで本題ですが、僕の考えでは
エヴァとリリスは同一人物です。

つまり、イザナミの生前といいますか、黄泉の国に堕天する前のことをエヴァとし、
堕天後の存在をリリスとして書かれていると考えます。

ええー!どうして?と思われる方は昨日のウィキからの引用をよく読んでください。

リリスを紅海沿岸から呼び戻そうと三人の天使が向かっています。
そのやりとりの様子はどうでしょう?
天使がリリスの子供を毎日100人殺すと言うと、リリスも負けじと、アダムとエヴァの子を永遠に殺す
と答えていますね。
これって、古事記での黄泉から逃げ帰るイザナギと追いかけたイザナミの問答と同じですよね。
立場と人物は入れ替わってますけどね。

実は聖書と古事記にはこういう記述が非常に多いようですね。

それでも超古代の真実は分からない(笑)

はてさて、いつになれば真実が明らかになるのか?

記紀は日本人の性格的なものが影響しているせいか、他の神話のような
人間臭いドロドロとした記述が少ないように思います。

男と女の情念、性的描写が足りない。意図的に隠されているようです。
まあ、天皇の系譜へと繋がる物語なので仕方ないということでしょうかね。


アワシマ

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 3 comments 0 trackback
先日、ヒルコについて触れたので今日はアワシマについて少しだけ考えてみます。

ウィキより

淡島神(あわしまのかみ)は日本の民間信仰の神である。和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡嶋(粟島)神社や淡路神社の祭神であるが、多くの神社では明治の神仏分離などにより少彦名神等に置き変えられている。
淡島神を祀る淡路堂という寺も各地にある。ただ確認した所、本尊と共に少彦名神が祀られている淡路堂も存在する。
婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。
淡島神(淡島明神)の本体については以下の様に様々な伝承がある。
少彦名神とする説。少彦名神が医薬の神とされていることや、『古事記』や『伯耆国風土記』に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま)から常世の国へ渡って行ったとする記述があることによる。加太淡島神社を始めとする多くの淡島神社がこの説を採っており、祭神を少彦名神、および、ともに出雲の国造りをした大国主神としている。
日本神話に登場する「淡島」が淡島神であるとする説。伊弉諾神と伊弉冉神が国産みを行った際に、両神の2番目の子として「淡島」が登場する。しかし、最初の子である蛭子神と同じく、不具の子であったために葦の舟に乗せて流され、子の数には数えないとしている。
住吉明神の后神であるとする説。淡島神は天照大神の6番目の御子神で[要出典]住吉明神に嫁いだが、婦人病にかかったことにより淡島に流されてしまったため、そこで婦人病の人々を救うという誓いを立てたという。これは和歌山市加太と対岸の友ヶ島が住吉神社の社領であったことから後世に附会されたものと考えられる[1]。
婆利塞女(ばりさいじょ)説。第3の説とも関係するが、俚俗に婆利塞女は16歳の3月3日に歯を染めて住吉明神に嫁いだが(その際に紀伊国の紀の岬から摂津国の住吉浦まで干潟と化したのでそこを通行したという)、その後婦人病を患ったために夫婦の仲に障りを来す事を嘆き、形代を作ってその障りを除いたといい、加太の淡嶋神社に女子から人形が奉納されるのはそれに縁るという[1]。なお、同名の神女に頗梨采女がおり、その頗梨采女は牛頭天王の后神とされている。
2番目と3番目の説は、「舟に乗せて流された」という点が共通し、1番目の説も少彦名神が舟に乗って海の彼方から来たと伝えられるので、舟でやって来るという点は共通している。また3番目と4番目の説は女神で婦人病に神験ありという点が共通し、淡島神は女神だから女性を守るという信仰も根強い。
ただ、加太淡嶋神社では神功皇后が祀られており、神功皇后自体にも安産や病気平癒の御利益があるため、3番目と4番目の女神説は薄いという説もある。

本当に古代の歴史というのは謎が多いですね。
一般に神話ってどういうふうに解釈されているのでしょうね。

さて、ヒルコの記事で述べたように、ヒルコ=ルシファーと仮定すると
アワシマは悪魔社会のNo.2にしてルシファーの腹心であるベルゼブブと考えるのが妥当でしょう。

しかし、ベルゼブブは女性ではありません。

アワシマが本当に女性なら別の存在ということになりますね。

そこで、聖書の世界からリリスという女神を当てはめてみましょう。

ウィキより

リリス(Lilith)は、本来はメソポタミアにおける女の夜の妖怪で、「夜の魔女」とも言われ、男児を害すると信じられていた。 聖書の『イザヤ書』においてはリリス(לִּילִית, 標準ヘブライ語ではリリト Lilit)は夜の妖怪か動物の一種だった。 ユダヤ教の宗教文書タルムード及びミドラッシュにおいては、リリスは夜の妖怪である。しばしばアダムの最初の妻とされるが、この伝説は中世に誕生した。

聖書におけるリリス [編集]
エドムの荒廃について書いている『イザヤ書』34章14節は、旧約聖書のなかで唯一リリスについて言及している箇所である。
荒野の獣はジャッカルに出会い 山羊の魔神はその友を呼び 夜の魔女は、そこに休息を求め 休む所を見つける。
– 新共同訳、以下同じ
Schrader (Jahrbuch für Protestantische Theologie, 1. 128) とLevy (ZDMG 9. 470, 484) は、リリスはバビロン捕囚によってユダヤ人たちの間に知られるようになった夜の女神であると考えた。しかしリリスが妖怪というよりは女神である、という証拠はない。イザヤ書の成立は前6世紀ごろで、この時期はむしろバビロニアの妖怪リリトゥが言及されている時期と一致している。ブレア (2009)によると、リリスはヨタカです。[2]
七十人訳聖書は、適切な訳語がなかったためだろう、リリスをオノケンタウロス (onokentauros) と翻訳している。前のほうにある「山羊の魔神」もダイモン・オノケンタウロス (daimon onokentauros) と翻訳されている。この節におけるその他の部分は除外されている。
ヒエロニムスはリリスをラミアと翻訳した。ラミアはホラティウスの『詩の技法』340にみられる子供をさらう鬼女で、ギリシア神話ではリビュアの女王であり、ゼウスと結婚した。ゼウスに無視されるようになってから、ゼウスの妻である女神ヘラはラミアの子供たちを奪った。それ以来、ラミアは他の女性の子供を奪う怪物になってしまった。
欽定訳聖書におけるコノハズク (screech owl) という訳には前例がない。これは、34章11節の「フクロウ」 (yanšup) および「大きなフクロウ」 (qippoz) とともに、翻訳するのが難しいヘブライ語の単語を、その部分の雰囲気に似合ったそれらしい動物を選ぶことによって意訳しようとしたのではないかと思われる。

アダムの最初の妻としてのリリス [編集]
『創世記』1章27節のくだり「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女にかたどって創造された」(アダムの肋骨からエヴァが誕生する前の節である)は、アダムにはエヴァ以前に妻がいたということだ、と信じられることがある。
リリスがアダムの最初の妻であるとした中世の文献は『ベン・シラのアルファベット』(en:The Alphabet of Ben-Sira)で、8世紀から11世紀ごろにかけて執筆された(著者不詳)。それによれば、リリスは性行為の性交体位におけるアダムの支配的地位を拒否し、そして彼を捨てて去っていった(「彼女は『私は下に横たわりたくない』と言い、彼は『私はきみの下になりたくない、上位にしかいたくない。きみは下位にしかいてはならないが、私はきみより上位にいるべきだ』と言った」)。リリスはただちに神の名を口にして、空を飛び、エデンの園を去り、紅海沿岸に住みついた。
リリスは紅海沿岸でアスモダイやほかの多くの悪魔たちと関係を持ち、無数のリリンたちを生んだ。アダムは神に、リリスを取り戻すように願った。そこで3人の天使たちが彼女のもとへ遣わされた。セノイ(en:Senoy)、サンセノイ(en:Sansenoy)、セマンゲロフ(en:Semangelof)という3人の天使たちである。天使たちはリリスに、「逃げたままだと毎日子供たちのうち100人を殺す」と脅迫したが、リリスのほうは「永遠にアダムと(現在の妻の)エヴァの子供たちを餌食にするが、その子供たちはただ3人の天使たちを召喚することによってのみ守られるだろう」、(アダムとエヴァの子供たちを守れるのはその三人の天使だけであり、天使たちはアダムとエヴァの子供を守っていろ、こちらには構うな、という意味だろう。)と言い返した。彼女はアダムのもとへは戻らなかった。
『ベン・シラのアルファベット』の背景と目的はよくわかっていない。この書物は聖書とタルムードの英雄たちの物語集成であり、民間伝承を集めたものなのだろうが、キリスト教やカライ派などの分離主義運動に反駁するものでもあった。内容は現代のユダヤ教徒にとっても攻撃的なものなので、これは反ユダヤ主義的な諷刺であるとさえする説もある[4]。とはいえ、どちらにせよ、このテクストは中世ドイツのユダヤ教神秘主義者たちに受け入れられた。
『ベン・シラのアルファベット』はこの物語についての現存最古の資料だが、リリスがアダムの最初の妻であるという概念は17世紀ごろヨハネス・ブクストルフ(en:Johannes Buxtorf)の『タムルード語彙集』(en:Lexicon Talmudicum)によってようやく広く知られるようになったに過ぎない。
19世紀終わりごろ、スコットランドのキリスト教徒ジョージ・マクドナルドはアダムの最初の妻、エヴァの子供たちを襲うものとしてのリリスについての物語をロマン主義的な幻想小説として発表した。

このように書かれている。

神に反逆した大天使ルシファーは光り輝く者であり男性である。これをヒルコとしたとして考えると
アワシマは光りに対する闇であり、女性としてのリリスと考えられる。
そして、リリスは地獄で次々と様々な悪魔を産んだと考えられている。

さて、ではベルゼブブか?リリスか?

その答えは?

分かりましぇん!

ごーめんなさいよ。

シェオル

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 0 comments 0 trackback
イコピコさんのコメントにシェオルという言葉があり、分からなかったので調べてみた。

ウィキより
シェオル(שאול, Sheol)は、ヘブライ語の音訳であり、新改訳聖書では「黄泉」の原語である。新改訳聖書の欄外注に記されている。新約聖書のギリシア語は、「ハデス Ἅιδης」「ゲヘナ γεεννα」がこれに相当する原語である。新共同訳聖書では「冥府(よみ)」と訳されている。新共同訳聖書では旧約聖書と新約聖書の訳語を統一して、「冥府」が旧約聖書で65回、新約聖書で10回使われている。[1]
旧約聖書時代は多くの場合、よみは死人のいる所であり、墓を意味した。(創世記37章35節、42章38節、サムエル記第一2章6節、列王記第一2章6節、ヨブ記14章13節)
天と対照的な所低い暗いところ。(民数記16章30節、33節、ヨブ記11章8節、詩篇139篇8節)
悪人の住むところ。(詩篇9篇17節、箴言23章14節)
新約聖書においては、『新改訳聖書』の定義によれば、「ハデス」は「死者が終末のさばきを待つ中間状態で置かれるところ」で、「ゲヘナ」は「神の究極のさばきにより、罪人が入れられる苦しみの場所」を指す。[2]
『新共同訳聖書』の定義によれば、「死者が集められる場所で、地下にあると思われていた。」とされている。[3]
詳細は「霊魂消滅説」、「エホバの証人に関する論争」をそれぞれ参照
『新世界訳聖書』では、シェオル、ハデス、ゲヘナとすべての箇所で音訳されている。エホバの証人は、シェオルをハデスとを同列に置き、人類共通の墓もしくはその領域と定義される。シェオルとハデスおよびゲヘナにいる死者には意識はなく(伝道 9:5)、死者の希望は体の復活であると見なす。ゲヘナの場合、シェオルやハデスとは異なり復活の希望はない(啓示 20:14)[4]。
ふーむ、聖書の解釈にもいろいろあるようだ。
僕はシェオルの正しい理解はないのですが、ハデスをゲヘナ等と同列に扱い、悪烈な場所としては
いけませんね。
ハデス正式にはハーデスですが、これは場所(空間)を示す名詞ではありません。
精神世界の存在を示す名詞です。神や悪魔とは基本的に異なる存在です。
何千年に一度くらいの頻度で現れては、世界を破壊と殺戮の恐怖に陥れ、暴君による支配を
成そうとします。
対処法は一つだけ、ハーデスの宿主が死ぬことだけです。
太古の昔から、宿主が自殺するか、生贄と称して殺されるかの選択しかなかったのです。

さて、本題のシェオルとは?

はっきり言って分かりません(笑)

ゲヘナは地獄の階層の内の第七層、一般的に奈落と言われるところですが、シェオルは・・・・
僕も聞きなれない言葉なので難しいですね。

黄泉の国という解釈はある程度正しいのかもしれません。
まあ、地獄の一部ではないことは確かでしょう。
前に北斗星君から、楓が黒髭の海賊船に連れ去られようとしていた時に、黄泉の国に行ってしまう。
黄泉の国に行くと連れ戻すことは出来なくなると聞かされたのですが、このことからも
神の力ではどうしようもない場所だということがうかがえます。

ということは、神ではどうしようもないのだから、神や悪魔とは異質な世界であると言えそうです。
このことから、シェオルとは、ハーデスにより殺された死者の世界ではないのか?
などと考えますね。

ウィキから引用した解釈の間違いについて少し話します。
シェオル、ゲヘナ、エゼキエル、アラバスタにしても、肉体を離れた人間の生命体が通常行く世界
ではありません。これらの世界に行くことは輪廻転生のサイクルから外れることです。
そして、シェオルが黄泉の国ならば、神でも助けられない。
一方、ゲヘナやエゼキエル、アラバスタ等の世界は神や悪魔の助けがあれば生還可能な世界です。

生還可能とは言っても、そんなに簡単なことではありませんが。
勿論、自力で脱出することなど不可能でしょう。まあ、アマテラスほどの力のある人間なら
話は違ってくるかもしれませんが。

ついでに、ゲヘナにはヒンノムの谷という場所があります。
この谷に送られた場合は、生命体の体の死を覚悟する必要がありそうです。
体と頭が離れる、つまり、打ち首状態で、頭は谷底に捨てられるそうです。
但し、誰かに頭を拾ってきてもらって、体にくっつければまた希望は持てるようです。

ヅラヅラととんでもない話を書いたので今回はこれで終わります。

阿波の正体とはとんでもなく恐ろしい場所であることが理解できたでしょうか?(笑)

かつて、「四国」は「死国」にされていたとはこういう意味もあるのかもしれませんね。

ヒルコ

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 0 comments 0 trackback
今日は古代史研究家の真似事でもしてみようと思います。

それで、記紀に出てくるヒルコについて考えてみます。

イザナギ、イザナミが最初に産んだヒルコから連想されるものは蛇ですね。

さて、再三、聖書と記紀は元は同じものだと言ってきました。

聖書に出てくる蛇とは?

そうです、イヴをそそのかしたあの蛇ですね。

その蛇の解釈についても諸説あるようですが、人を憎み貶めようとする蛇には違いありません。

一般的にサタンと認識されますね。

サタン=ルシファーですから、ヒルコはルシファーと考えられます。

ヒルコの解釈の一つに日の子というのがあるようです。

ルシファーは元々は大天使であり、光り輝く者であり、明けの明星とも言われていた?

ピッタリではありませんか?

聖書の創世記でもここにしか登場しませんね。記紀でも葦船に乗せて流されたとしか記述はありません。

サタンと呼ばれるほどの存在を、どちらにもあまり詳しくは書かれていないのは不思議ですね。

しかしですね、これらの書物が天皇の系譜を示す意図で書かれた物であるということになると
古い悪魔のことをあまり詳しく書く意味はありませんよね。

それに、神話の舞台が阿波であるので、ルシファーやベルゼブブはあまり重要ではない
ということになるかもしれません。

阿波にあるのは天岩戸であり、ゲヘナそのものですからね。

地獄の第七層(ゲヘナ)である根の国(奈落)の主アバドンについてはどうなっているのか?
ゲヘナの扉が天岩戸なので、少しはそれらしい記述があるのでしょうか。
うーむ、今のところわかりませんね。(研究家ではないので調べてはいない)

もっと調べる必要がある?ないか?(笑)

はてさてこの続きはあるのか?ないのか?

どっちでもいいですね。

ということで続く・・・・・    

かな?

イザナミ

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 0 comments 0 trackback
さて、あまりもう書けることもないのですが、もう少しだけお付き合い願います。

ゆらさんの疑問の答えになるかも?

イザナギ、イザナミとアダムとイブについて

聖書では、神の言いつけを破り蛇の誘惑に負けたアダムとイブはエデンの園を追放されました。
普通に考えると、彼らが精神世界の存在なら堕天ということになりますが、あくまでも神から
創造された人間ということですので、地上に降ろされ普通に地上での生活をしたことになります。

古事記では、そういう記述は一切ありませんね。
イザナギ、イザナミは神として登場しています。そして、日本の国土の元を造ったとなっています。
それから、様々な神を産みカグツチを産んだことが原因で死亡となっています。
普通の人間ならこれでお話はお終いですが、イザナギ、イザナミは普通の人間ではなく、
古事記では神ですよ(笑) ここで重要なのは、カグツチを産んだ後も肉体から様々な神が
誕生していますが、(さすが神話だ!)さらに黄泉の国へ行ってしまっていることです。
そして、イザナギが迎えに行った時には既に、黄泉の国の食べ物を食べてしまっており、
醜い女性になってしまっていたこと。つまり醜女ということです。

黄泉の国とは普通の人の死後の世界ではありません。邪悪な者が存在する恐ろしい世界です。
黄泉の国のはっきりとした定義は僕も分かりません。アバドンは奈落、ベルゼブブは?
ルシファーの住む世界を指すのか?それともハーデスの世界なのか?
まあ、いずれにしても良いものではありません。

この表現はつまりイザナミが堕天したことを表現しているわけですね。

聖書の創世記ではこのことには一切触れず、他の文書で説明しているものと思われます。
と言っても、聖書ではあくまでも人間の物語としていますよ。

あれっ!何が書きたかったのか忘れてしまいました(笑)

聖書はエバの二面性を別の人物(リリス)として登場させているのではないか?
そういう考えに至るわけです。
だから、その後のアダムとエバの子孫は古事記で言えば神にあたる。(実際には神と悪魔)

イザナミが国生みの途中で闇に染まったという話がリリスの話になっていると考えるのです。
(実際には神と悪魔両方です)

話は変わって、のらねこさんの8/29の「黄泉の国と伊邪那美命」にもがりという言葉があります。
これが、イザナミの事件が発端だとしたら、何故肉体を何年もそのままにしておくのか?
疑問ですよね。
これについて考察してみます。

イザナミの死亡は本当に死亡だったのか?という疑問が僕の中にあります。
霊魂(生命体)の抜けた肉体はただの人形のようなものです。
死亡していなくても死亡のような状態に見えます。ですが、動かないだけで死亡ではありません。
古代の人はそれを理解していたのかもしれませんね。現在でも稀に生き返る人もいるようですし。

普通の死亡の場合、何日かの間に肉体と霊魂を結ぶ目には見えない糸のような物が切れてしまう
と考えられます。
ですが、死亡ではない場合は違います。自ら肉体を離れた場合や、精神世界の存在により
霊魂が連れ去られた場合などです。
この場合はかなり長い間肉体と霊魂を結ぶ糸は切れないようです。
つまり、イザナミはこの状態だったのかもしれませんね。だから、肉体をそのままの状態で維持
していたのではないかと考えます。

しかし、イザナミの生命体は現世には戻らなかった。すでにあちらの忌まわしい世界の住人に
なっていたということでしょう。

この風習は一般の人には行われていなかったそうですので、エジプトのミイラにも繋がるような
気がします。ただ、エジプトでは長い年月の間に何者かの影響により、内臓を取り出し
腐敗処理を施すようになっていますね。
これでは本来の意味がありません。肉体が損なわれていますからね。

王や王家の人間は特別な力を持っており、甦ると信じられていたということですね。
テレビなどでも、何年も意識がなく植物状態の人が、ある日突然目を覚ますことが報じられています。
本当は甦りではなく、肉体から離れていた霊魂が肉体に戻るだけのことなんですね。

また、日本には神隠しというのもあります。これは肉体ごと別次元の精神世界にさらわれる
ことを意味していると思われます。
そんな馬鹿な と思われるかもしれませんが、事実としてあるんですね。

今日はこの辺にしておきます。


九頭龍

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 0 comments 0 trackback
さて、九頭龍=ベルゼブブの検証をしてみます。

ウィキより
鹿野山の九頭龍伝承 [編集]
千葉の鹿野山麓の鬼泪山(きなだやま)には、九頭龍という九頭の巨大な大蛇が棲みつき、村人を襲い人々を喰らっているという。 村の長が都に使いをたて大蛇退治を願い出たところ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が大蛇退治に遣わされた。 村人がその恐ろしさをタケルに語ると、タケルは腰の剣を抜き「必ず この草薙剣で大蛇を退治してみせる」と誓い、村人の案内で小川沿いの道を鬼泪山に分け入った。 タケルは懸命に九頭龍を探すが一向に見つからない。疲れ果てていつしかタケルは眠ってしまった。するとそこに九頭龍が現れ、タケルを一飲みにしてしまった。
三日程たったある日。村の娘が小川で洗濯をしていると、だんだんと川の澄んだ水が赤く染まっていった。娘はあまりのことに驚き、村人を呼んだ。「タケルノミコト様が大蛇を退治して下さったからに違いない」「いやもしかしたら、タケルノミコト様の身に・・・」などと話し合っていると、ヤマトタケルノミコトが現れて「つい油断して九つの頭の蛇に一呑みにされてしまった。幸いにも生きていたので 約束どおり この剣を抜き、奴の腹の中を滅多斬りに切り裂いて、外へ出られた。そして、九つの頭を全部切り落としてやった」と言った。
この時流れ出た血が、川を三日三晩染めたので、今でもその川のことを「(血)染川」と呼んでいる。なお、退治された九頭龍の霊魂は長年を通じて供養され、「九頭竜権現」として祀られるに至り、今でも神野寺仁王門に鎮座されている。また、鹿野山測地観測所の下には「大蛇作」「蛇堀」などと呼ばれる場所がある。かつて大蛇の棲息していた場所だと言う。
龍ではなく、鬼泪山に篭って日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と闘ったのは、鬼とされた阿久留王だったという伝承もある。別名、六手王とも言った。鬼泪山北麓を流れる染川(血染川)は、その鬼の血で三日三晩染まったので「(血)染川」と呼ばれるようになったとも言われる。また、鬼が泣いて許しを請うたので「鬼泪山」という呼称がついた事にもなっている。阿久留王の墓という祠が江戸期までは実在したと言われている。
鬼泪山でヤマトタケルと闘ったのは、でいだく坊、だいだあ法師、デーデッポ、だいだらぼっち という巨人であったという伝承もある。
九頭龍川流域の伝承 [編集]寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべた。すると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神[1]の対岸に泳ぎ着きたという。以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになった。(『越前国名蹟考』福井県郷土誌懇談会 著 1958年発行 より)
この地方での黒龍大明神の祭祀は、天地の初めから国土を守護されてきた四方位を象徴する御四柱の神々「四大明神」の御一柱を祀るものとされた。東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島大明神(神宮創建 推古天皇元年593年)、北の越前国の当地には黒龍大明神として、日本の国家鎮護 及び 黒瀬川(九頭龍)流域の守護神として祭祀されてきた。五行思想から黒と水は北方を象徴し北方を守ると考えられ、また、四竜において北方を守護するのはやはり黒龍だからである。
 ~黒龍大明神信仰の歴史(参考まで)~
雄略天皇21年(477年)、男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜(舟橋の現在地から6.5km上流の川の中央に位置)に創祀された。この儀により現代まで連綿と続く九頭竜湖~九頭龍川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされる。
第四十三代元明天皇和銅元年(708年)9月20日、高志連村君(こしのむらじ・むらぎみ)が継体天皇の御遺徳を景仰し、高尾郷黒龍村(毛谷の杜)で御霊を合祀。
延暦3年(784年)8月、社殿が火災で焼失し坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ、坂上田村麻呂の父)が再建
承平元年(931年)、藤原利行 朱雀帝御宇承平元年越前国黒龍村、毛谷神社神職となる。(藤原姓の神職の祖 第一代)
承平3年(933年)、長者となった生江の世常の宿祢(いくえのよつねのすくね)の夢にお告げがあり、社殿を新しく造りかえた。毎年七度の祭礼が行われてきたという。それが延喜式にある坂井郡毛谷神社で、今の毛谷黒龍神社にあたる。生江の世常の宿祢が長者となる奇跡の物語は、今昔物語[巻17-47]や宇治拾遺物語[巻15-7]に載っている。
光明院御宇暦応元年5月2日、二十四代藤原行古が左中将義貞に従軍し藤島の里に戦死。暦応元年5月、新田義貞が斯波高経と戦ったとき、 黒龍神社も兵火にかかり燃える。このとき神霊は、白龍となって山上に飛び、木の上にとまった。そこで、このあたりを竜ヶ岡(たつがおか)と呼ぶようになった。(「太平記」巻第二十に黒龍明神下での戦いの記載あり)
箱根の九頭龍伝承と祭祀 [編集]箱根の九頭竜伝承は九頭竜の代表格とも言える。『群書類従2』p330-336「筥根山縁起并序」の項より、一文を引用して説明したい。
“ 又湖水西の汀に九頭の毒龍有て時々雲を拏び波を起こして人民を損害する事あり。 上人衆生の苦を救ふを願とす。此故に彼深潭に臨で仏に祈誓し給ふに毒龍 則 降伏して其形を改め、宝珠錫杖及水瓶を捧げて出現す。上人則鉄鎖を呪して縛して以て大木に繁ぐ。其木を栴檀漢羅樹と云。今尚湖中に有り。 ”

九頭龍神社の縁起は箱根神社と同じ天平宝字元年(757年)。九頭龍神社は箱根神社を開いた万巻上人が調伏した龍を奉る神社である。
芦ノ湖がまだ万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代以前、箱根の村には毎年 白羽の矢[2]が立った家の若い娘を芦ノ湖に棲む毒龍に人身御供に差し出すという習慣があった。
それを知った箱根山で修行中の万巻上人は娘達を助け、村人を助けるため法力で毒龍に改心してもらうため立ち上った。 万巻上人は御仏に祈り人身御供の代わりに三斗三升三合三勺の赤飯を21日間の祈祷満願日の前日6月13日(旧暦)[3]に捧げることを誓い、湖畔で経文を唱え 毒龍に対して人身御供を止めるように懇々と仏法を説いた。毒龍は 姿形を変え、宝珠・錫杖・水瓶を捧げ出現した。それでも鉄鎖の法を修し、龍を湖底の白檀の大樹に縛り付け、仏法を説き続けた。後に、その木は「逆さ杉」と呼ばれるようになった。 龍は、もう悪事はせず、地域一帯の守り神になる旨を約束をする。万巻上人は龍の約束が堅いことを知り、九頭龍大明神としてこの地に奉ることにした。その満願の日とは6月14日(旧暦)。そのため九頭龍神社の祭りは、毎年6月13日が例大祭、毎月の13日が月次祭である。 今でも芦ノ湖の湖水祭ではお櫃に赤飯を入れ、御供船に載せ 逆さ杉のところで湖底に沈め捧げる。このお櫃が浮かび上がってくると龍神が受け入れなかったとされ、災いが起きると言われる。
近年では大正12年(1923年)の湖水祭でお櫃が浮かんでおり、その数ヵ月後に起きた関東大地震(大震災)から、九頭龍神社の霊験があったとされた。
戸隠の九頭龍伝承 [編集]
戸隠の九頭龍信仰の源は戸隠神社の九頭龍大神である。鎌倉中期に記された『阿裟縛抄諸寺略記』の中に、西暦800年代の中盤頃の話として、「学門」という名の修行者が法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼をこの地で岩戸に閉じこめたという言い伝えが残されている。悪さをしたため岩戸の中に封じられた龍である面、山伏たちが、九頭龍権現の名で、雨乞いをして水神として人々を助けた面の両面がある調伏善龍化伝承。因みに歯痛の治療に霊験があり、好物の梨を供えると、歯の痛みを取り除いてくれるとされている。
三井寺の霊泉と九頭龍大神 [編集]近江国三井寺(園城寺)金堂の近くには天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたという霊泉が沸いている。この霊泉は「御井(みい)」と呼ばれ、「御井の寺」から三井寺の通称となった。その霊水は、古来より閼伽水として金堂の弥勒菩薩に御供えされてきた。
この御井の霊泉には九頭一身の龍神が住んでおられる、と今に伝わる。その九頭龍神は、年に十日の間、深夜 丑の刻に姿を現わして、黄金の御器を用い水花を金堂の弥勒菩薩まで供えに来られるという。そのため、その期間は泉のそばを通らない仕来たりであった。近づいたり、覗いて見るなどの行為は、「罰あり、とがあり」と言われ禁じられてきた。

京都 八瀬大原の九頭龍弁才天伝説 [編集]1954年(昭和29年)11月24日、大西正治朗(1913 - 1988)という人へお告げがあり、京都の八瀬大原にて九頭竜大社が建立されることとなった。現地では、繞道[4]を通ることを思わせる日本では珍しい参拝の方法を推奨している。後の夢告では、日本へのテロ攻撃も警告されたことがあるという。
仏教との関連 [編集]仏教での九頭竜とはもともとヴァースキ(和修吉)である。ヴァースキはシェーシャ(Śeṣa)と同一視される。シェーシャとはインド神話に登場するナーガラージャで、カシュヤパ仙とカドゥルーの間に生まれた1000のナーガの1人である。須弥山を守るとされる。その姿は千の頭をもつ巨大な蛇とされ、千の頭の一つ一つに卍の印がついている他、イヤリング、王冠、花冠も身につける。
仏教伝播で中国に伝わった際に八大竜王の和修吉となり九頭一神の龍となった。後に神仏習合され九頭竜は仏教と神道を守る神となる。八大竜王は密教の信仰である。現世利益を強く求める密教において九頭竜は雨乞いをつかさどる神として信仰は完成する。
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この中で特に気になるのは京都 八瀬大原の九頭龍弁財天伝説です。
詳しくは書かれていないようですが、自分の経験から
勇者物語でも触れていますが、ベルゼブブの手下が弁財天と人間との間の子孫を名乗り
メールしてきた事件がありました。

やはり、ベルゼブブと弁財天には深い繋がりがあるようです。
これは僕の中では九頭龍とベルゼブブを結びつける決定的な証拠となります。

それだけかい!?

それだけで十分です(笑)

アバドンの正体もこんなに上手くいけばいいのですが・・・

ギリシャ神話が謎を解く鍵となりそうな予感が・・・

何故かと言うと、ゲヘナへ入るにはテーベの短剣が重要な鍵となっているからです。

それだけ?

それだけだよ!!悪いか!!?


これでベルゼブブに関する日本神話での名前は完全に解明できたと思います。

Posted by 勇者いくお on 07.2011 精神世界 0 comments 0 trackback
さて今回は神について少し考えてみます。

日本では八百万の神と言われるように大勢の神が祀られ信仰されています。
しかし、実際にはそんな神は神社などにはいません。
神の存在を信じてはいても、神が神社にいると思っている人は少ないのでは?

そして、実は神社に祀られている神というのは、いわゆる悪魔の方が多いようです。
これは悪魔の巣窟に繋がる徳島だけに限ったことでしょうか?

朱塗りの鳥居と注連縄で結界された神社は非常に少ないように思いますが・・・

僕は神社については全くの素人なので詳しいことは知りませんが、
ちゃんと調べていくと、ルシファー、ベルゼブブ、アバドンと繋がるようですね。

極端な話、神社は悪魔を祀っている場所ということになりそうです。
人に災いをもたらす存在を畏れ、鎮めるための場所としての神社

それが、気の遠くなるような年月の間に信仰の対象、金儲けの対象となっていったようです。

そんなことを言うと神なんていないということになってしまいそうですが、
神はちゃんといます。
出雲には神がいるそうです。
出雲大社があるんだから当然?いえいえ、違うと思いますよ。

ひょっとすると、完全に忘れさられた山の中の小さな祠じゃないですかね。
アホか?って言われても困りますが(笑)
邪鬼(ハーデス)が出雲には神がいるので邪魔だと言ってましたからね。
邪鬼は神や悪魔とは全く異質な存在であり、神よりも力は上ということになります。
神が邪鬼に倒されてしまうと、地球は大変なことになります。
神と悪魔のバランスが崩れてしまいますからね。
地球が崩壊する可能性だってありました。

僕の住む徳島から北西の方角に「天門」というのがあるそうです。
なんとなく雰囲気で神界と繋がる通路という感じですね。

出雲も北西の方角と言えなくもないです。
できることなら、天門を通り、12次元の最高神に会ってみたいものですね(笑)
とは言っても、実際に会えたら文句たらたら、愚痴ばかりになりそうなので
会えないほうが良さそうです。

結局、太古の昔から積極的に人間に関ってきたのは悪魔ですが、
日本ではこの悪魔の力が直接及んだので神として畏れていたんですね。

本物の神はめったなことでは人間に関らないのです。
神話にはたくさんの神が登場していますが、太古の昔は精神世界と現実世界の
境界がはっきりしていなかったので、様々なエピソードを元にした話が
伝わって残っているのです。

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